私が大学に入学したのは1988年。
テレビ朝日の「朝まで生テレビ」が始まって間もない頃でした。


保守思想がまだ流行っていないこの時代に
西部邁氏は「朝生」で孤独な戦いをしていました。
「右翼」「保守」といったレッテルを貼られながらも
持論である「大衆批判」を展開していました。


また、中沢新一氏を東大教養部へ招聘する計画が頓挫したことが
きっかけとなり、東大と喧嘩別れをしました。


そして、私も西部氏のことを「いかがわしい人物だ」くらいに
思っていたのですが、親友S氏に西部氏の本を読むことを
強く薦められました。「野口なら絶対に共感できるはずだから
是非読んでほしい、絶対に面白いから」と。


親友S氏の炯眼、おそるべし。私は瞬く間に西部氏のフアンに
なっていきました。そして、保守思想の魅力のどんどん惹かれて
いきました。



学者 この喜劇的なるもの
西部 邁
草思社
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この本において、西部氏は東大で起きた騒動を報告しつつ、
学問論、知識人論、そして保守思想論も展開しています。


p.11
自己を疑うことをしない凡庸な人間を大衆人とよぶなら、
大衆人の典型は、自己のかかわる分野以外には興味を示さない、
さらには反発を隠さないものとしての専門人である。


p. 38
上の世代にたいしては「経験の知恵に経緯を払う」構えを持ち、
下の世代にたいしては「後世畏るべし」という構えを失わないのが、
保守が時代を生きてみせる骨であろう。


p.29
少年と老人のあいだで並行をとること、面白さと苦々しさとの間で
節度を保つこと、生と死のあいだで己を持すこと、軽率と慎重のあいだで
演技すること、非日常と日常のあいだにいる自分の姿を見定めること、
ともかく、そうしたタイト・ロープともリッジ(尾根)ともいえる一本の
道があるはずである。(中略)みかけは平凡だが内実は複雑をきわめるのが
保守の精神である。


p.49
懐疑するにあたっては、そのための前提が必要となる。(略)
いずれかの前提を採るに際しては、自分なりの偏見や決断を
見通しに賭けざるをえない。そしてその賭けはもはや懐疑を
超えた次元にあるのだ。それを「信」とよぶならば、「疑」は
「信」のうえに成立するのである。(略)懐疑だけではかならず
虚無に落ち、信仰だけではまちがいなく軽信に流れる。




そう、保守思想とは、単に過去にすがる思想ではありません。
また、保守思想は、決して単なる現状肯定ではなく、単なる思考停止
的な愛国主義でもなく、また単なるエリート主義でもない。不完全である
人間という存在が驕ることなく謙虚に生きるためには、伝統を参考にする
必要がある、と説いているのだと気付きました。


「保守思想=日の丸、君が代」という、簡単な図式ではないんです。


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