勝間和代氏は、「訓練としてブログを書くこと」を提唱されています。


勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド (ディスカヴァー携書 022)
勝間 和代
ディスカヴァー・トゥエンティワン
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おすすめ度の平均: 3.5
4 マネできる、できない、の問題ではない。
1 ファンタジー
4 600万の事実
3 読んでテンションは上がるが参考にならない
1 現実味に欠ける


p.194
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大人の学習法については、さまざまな方法論や素材が出ています。しかし、本当に大事なのは、学んだことを自分から発信してみることではないでしょうか。
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上のアマゾンでの評価からも分かりますが、勝間さんの著作に対する評価は割れているようですね。私は勝間さんが提唱する学習法(英語学習を含む)には、耳を傾けるべき英知が含まれていると思います。


学んだばかりの考え方をブログに書くことが、自分の学習の成果をまとめる訓練になり、幅広い方々から感想や批判を受け取る絶好の機会を提供してくれます。英語学習においても、学んだことをどんどん発信すべきです。理想としては、単語や文法等を学びながら、同時進行で会話やライティングの機会を設けると良いです。学んだばかりのことを発信してみることで、知識が定着しやすくなるからです。


ただ、インターネット上で意見を書くことは、大変危険なことでもあるんですね。ちょっと刺激的なことを書くと、ただの批判に留まらず、嫌がらせや脅しを受け取ることになります。以前、ある職場の上司に私のブログ上のコメントに関して苦情が入っって呼び出しをくらい(苦笑)参りました。直接私に言ってくれればいいのになあ。ブログ上で発言が要因で社会的に大問題を引き起こしたり、職を失ったりすることもあるようですね。もちろん誹謗中傷をしないように、注意は必要です。


というわけで、私は勝間さん達が言うほどブログやツイッター等のネット上の情報発信媒体に信用はおけずにいます。漫画家の小林よしのり氏が以前よく描かれていた通り、インターネット上の書き込みは「便所の落書き」みたいなものです。でも、便所の落書きにも光るものがありませんか?


しばらくご無沙汰してしまいましたが、「光る便所の落書き」を目指してブログを続けていきたいと思います。


「構造主義について書きます」、と宣言してから2年以上たってしまいました。反省。私のお弟子さんのYさんが、大学院で記号論のクラスの内容が難しくて悲鳴をあげている(苦笑)ことがきっかけになりました。私自身も構造主義について勉強をし直します。そして、素人なりに「学んだこと」を発信させてください。



↓「その1」と「その2」↓
http://d.hatena.ne.jp/futaro1968/20080224
http://d.hatena.ne.jp/futaro1968/20080228


寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹
文藝春秋
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p.25
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私たちは自分達が思っているほを、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
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この本の「まえがき」は、面白くて分かりやすく、読んでいて爽快な気分になるのですが、第1章は難しい! 内田先生、タイトルにある「寝ながら」はちょいと大げさですよ。(笑)第1章は、通常の学術書の書き方に倣って、構造主義の背景、前史について語られています。構造主義、特にソシュールの言語論について学びたい方は、「はじめに」と「第2章」をから読むほうが分かりやすいと思います。第1章で挫折した方、飛ばして第2章を是非読んでください。


第1章では、構造主義の「地ならし役」「先駆者」として、マルクス、フロイト、ニーチェの3人の思想が語られています。フロイトは、人間が「無意識」という、当人には直接認識できていないが、それでいてその人の行動を支配しているものによって規定されていることを説きました。それは、マルクスが、人間が自由でいて実は「階級的に思考していると看破した」(p.34)のと似ています。


簡単に言うと、構造主義は歴史主義と反対の概念です。人間を「一直線の歴史を通じて進化を続けていく存在」であると規定する歴史主義へ対するアンチテーゼとして、構造主義は誕生しました。私が学生の時、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という本が大ヒットし、私のゼミでも課題図書となりました。フクヤマのこの本は、共産圏諸国がバタバタと倒れていった現象を受けて「歴史が終わった」と論じた、アメリカ的楽観主義の匂いがプンプンする本でした。(20年ほど前の記憶で語っています。論文ではなく、ブログなのでお許しください。)西洋的な歴史主義の立場から眺めると、1990年前後のソ連邦および東欧圏における共産主義の行き詰まりは、「西洋的なリベラル民主主義」が歴史の最終段階である、という「勝利宣言」でした。昨年亡くなったレヴィ・ストロースとサルトルとの間における論争も、構造主義と歴史主義との間の「イデオロギー論争」でした。


構造主義は、人間という存在が、通常私達が思っているほど、主体的に、あるいは自由にものを見ているのではないことを解明します。実は、私たちは自分達が所属する文化や社会の「基準」によって物の考え方を規定されている存在です。そして、たとえば外国語を学ぶ場合、その外国語の「思想」や「基準」が、無意識の内に私たちの思考を色濃く変えてきます。が、多くの場合、私たちはそのことに無自覚なのです。


うーん、構造主義を語ると、どうしても暗い響きになってしまいますね。(苦笑)どうしても、悲観的なトーンの文章になってしまう。でも、構造主義は決して悲観論ではありません。私たちの思考が文化によって規定されていることを「自覚」し、その事実を見据えた上で「遊び」や「自由」を語ることができます。ただ、その「自由」が、一部で考えられれているような、楽観的な「自由」ではない、ということだけのことです。