On Life after Death, revised

"Death is simply a shedding of the physical body, like the butterfly shedding its cocoon."
〜Dr. Elisabeth Kubler-Ross 〜


風太郎による日本語訳:「死は肉体から旅立っていくだけのことなの。蝶が繭(まゆ)から旅立っていくようにね。」 〜キューブラー・ロス博士〜


幼い頃、母に「人は死んだらどうなるの?」と尋ねたことがあります。(たしか私が6歳くらいの時です。)返ってきた答えは、おおよそ以下の通りでした。「人間は死んだら全てが無くなるの。死んだら何もかもが終わる。だから、死ぬまで一生懸命に頑張らなくてはいけないの。怠けてはだめよ。」


私の母は頑張り屋さんなので、子供から出た「死」に対する質問に乗じて、頑張ることの大切さを説いたのだと思います。ただ、私はそれ以降、極端に死を怖がる子供になっていってしまいました。母の発言のせいなのかは定かではありませんが、「どんなに頑張ったって、結局最後に死んじゃうなら生きていったって意味がないではないか」という、ネガティブな人生観を持つ小学生になりました。親の諸々の発言に違和感を覚えていたこと、小学校でいじめられていたこと、吃音や赤面症等の悩みがあったこと等々も重なり、強い自殺願望を持つに至りました。(実際に自殺を試みるまでには至りませんでしたが。)小学校4年生の頃、友達がいない私は、毎週日曜日に横浜は関内の有隣堂へ本を買いに行くのが生きがいでしたが、哲学書コーナーに迷い込んで「人間は生まれた瞬間から死に向けての階段を日々少しずつ歩んでいく生き物なのである」(誰の言葉だったのだろう・・)という内容の文章に触れて、なんとも表現できない嫌な気持ちになったこと、見てはいけない世界を垣間見てしまったような感触を覚えたことを、今でもリアルに思い出すことがあります。


キューブラー・ロス博士が語る「死後の世界」には賛否両論があることは承知しています。「単なるオカルトだ」「非科学的だ」という批判の声もありますし、ロス博士自身が、死の直前に自身の意見を変えたという理解もされています。でも、「死」の問題を、本当に「科学」という視点だけで語ってしまってよいのだろうか? 


トランスパーソナル心理学の理論家であるケン・ウィルバーは、物事を見る際には「肉の眼」(=自然科学の言葉)「心の眼」(=芸術の言葉)「霊の眼」(=宗教の言葉)という「3つの眼」を使い分けることを提唱しています。そして、私は「死」の問題は「霊の眼」、つまり神話や宗教のレベルにおける言語にて語るべき領域だと思うのです。ロス博士の「死は蝶が繭(まゆ)から出ていくようなもの」という発言は、「死」という現象を「霊の眼」で語ったものであって、彼女の言葉を「肉の眼」(=自然科学の発想)で否定しても意味がないと思うのです。


私に子供ができて、もし「死」のことを問われたらどのように答えるか、今から準備しておこうと思います。「人は死んだら、魂が体から抜け出て、あなたが大切にしていた家族や友達の中で生き続けていくんだよ。」くらいのことは、せめて言いたい。え、魂なんて存在しないって? 私が使っている「魂」と言う言葉は、「霊の眼」の言葉です。「魂」を「肉の眼」でとらえて、実体として存在するか否かは私には分かりません。でも、「神話」としてならば、「魂」という言葉を使ってもよいじゃないですか! 


「神話」なき国家は滅びる。「神話」なき人生は干からびる。


合掌。生かして頂いてありがとうございます。