「日本人」をやめられますか (朝日文庫)


私の最終学歴は「法政大学社会学部卒」です。したがって、私の専攻は世間的には「社会学」なのですが、その後社会学からは完全に離れ、現在は心理学の分野で修業をしています。


大学1〜2年の頃の私は、社会学が専門の杉本良夫先生の著書に魅了され、「日本人をやめられますか?」「進化しない日本人へ」等の刺激的なタイトルの本を読み漁りました。そして、メルボルンを旅行中に先生が勤務されていたラトローブ大学にアポなしでおしかけて、お会いはできなかったけどお電話で少し先生とお話しをさせていただいたこともありました。ご迷惑だっただろうなあ。苦笑


以下、20年以上前の記憶に基づく文章であり、文献上でのチェックはできていません。今は手元に本がないのです。ご了承ください。


杉本先生は「相対化の相対化」という作業を提唱されていました。たとえば、日本をアメリカと比較して「日本を相対化」することにも一定の意義はあるのだが、そうすると「比較の道具」に過ぎないはずのアメリカを「絶対化」しかねない。日本を語る際に、「アメリカでは〜なんだよ」と、なんでもかんでもアメリカ基準で日本を評価することになりかねない。そこで、杉本先生は「相対化」の作業を、さらに「相対化」することを提唱されていました。たとえば、日本をアメリカと比較して「相対化」を実践したのであれば、その相対化の作業をさらに「相対化」する、すなわち「相対化の相対化」が大切である、と。具体的に言うと、日本をアメリカと比較した後に、その比較作業自体をオーストラリアという「第三の視点」から眺めてみることが重要である、と。


オーストラリア体験は私にとって衝撃的でした。日本とアメリカのことしか知らなかった私は「アメリカだけが英語圏ではない」という当たり前の事実に、遅ればせながら気づきました。「Tetsuyaは日本人なのに、なんでアメリカ英語をしゃべるの?」と不思議そうに尋ねられて以降、私は「英語の脱アメリカ化」を目指すようになりました。今の私は、英語力で評価をいただく際には「neutralな英語(アメリカ英語に偏ることのない、中立的な英語)だね」と言われるのが一番うれしいです。


留学当時、英語を書く際に頻繁に参照していた「正しいオーストラリア英語の用法」について解説をしている本を、私は今でも大切に保管しています。



この本のp.281には"offensive intruders"(害ある侵入者)という項目があり、アメリカ流の英語を安易に使うことを戒めています。たとえば、映画のことは"film"と呼ぶべきであって、"movie"と言う言葉は使うべきでない!と書かれていますね。苦笑 他にも「電話する」は"I'll ring you."と言うべきであって、"I'll call you."とは言うな、とも書かれています。かなり極端だ。


同じ英語圏ということもあり、オーストラリアにはアメリカの本、テレビ、映画等が大量に入ってきます。でも、だからこそ、アメリカ英語とは一線を画す「オーストラリア英語」を目指そう、という姿勢が大切にされるされる余地があるのですね。


「日本→アメリカ→オーストラリア」という順番で生活体験を得た私にとって、杉本先生の理論は「心の支え」でした。そして、英語指導の現場においてアメリカ英語偏重にならずにすんでいるのも、オーストラリア経験のおかげです。私は最近IELTS指導も始めているのですが、オーストラリア在住経験のおかげでTOEFLからIELTSへの「転向」も比較的スムーズでした。


感謝。合掌。