前回のエントリー(「大衆」とは何か? - 風太郎の海辺)で書かせていただいた通り、西部邁と吉本隆明の対談は二人の「大衆」という言葉の定義の違いや「大衆」に対する思想的立場の違いが要因で平行線をたどった。
ここで考えてみたいのが欧米語の日本語訳についてである。英語の"mass"(マス)を「大衆」と訳すこと自体を考え直すべきだと私は考えるのである。英語の"mass"(マス)はラテン語の"massa"をルーツに持ち、”mass communication"(マス・コミュニケーション:いわゆる「マスコミ」)"mass production"(マス・プロダクション:大量生産)等の言葉においても使われる「集団、集まり、多数、多量」等を意味する言葉である。そして、社会階級としての"mass"(マス)は辞書において「エリートに対するものとしての大衆」「教養がない人たち」「リーダーではない普通の人たち」等の説明があてがわれている。そして、少し踏み込んで申し上げると、日本では「エリート」という言葉に「エリート意識」という言葉等において否定的なニュアンスが込められることが多く、逆に「大衆」には「大衆演劇」「大衆酒場」等の言葉遣いに表れている通り肯定的なニュアンスが含まれることが多い。そういう意味で言うと、吉本隆明の「大衆」という言葉遣いの方が通常の用法に近いとすら言うことができるであろう。
私は思想的には吉本隆明には否定的である。呉智英や小林よしのりによる批判にほぼ全面的に賛成である。だが、「大衆の味方」というスタンスは心情的には訴えかけるものがある。
参考:呉智英による吉本隆明批判
スペイン人のオルテガが書いた"A Rebelion de las Masas"という書籍(英語訳のタイトルは”The Revolt of the Masses")を「大衆の反逆」と日本語へ訳してしまうと、オルテガの意図である近代批判や民主主義批判のニュアンスが伝わりにくくなってしまうのではないだろうか。西部邁はこのあたりの事情を考慮してオルテガの本を後年は「大量人の反逆」と呼ぶようになっていった。
『マス(大量人たち)は、我が国では「大衆」と訳され、しかもあろうことか―われわれ大衆は」とか「皆様大衆のために」とかいった言い方に見られるように―肯定的な意味合いでその語が用いられることすら少なくないのである。だが、アレクシス・ド・トックヴィルの(十九世紀前半における)アメリカ論(アメリカにおけるデモクラシーについて)においてすでにそうだったのだが、西欧では大量人はとことん否定的な意味で遣われる言葉なのだ。あっさりいうと、マスとは「愚劣で低劣で卑怯な人々」ということなのである。(中略)それがオルテガに至って「大量人の反逆」という強い表現を得ることになったわけだ。「社会を統治する能力も気力もない大量人が、"みずからの限界に反逆して"社会のあらゆる部署の権力を簒奪し、そのあとで、"この世に社会を指導できる人材はいないのか"と歎いてみせる」、それがマスソサイアティなのである。」(「ファシスタたらんとした者」西部邁 中央公論社 p.116~p.117より引用)
西部邁は西欧の学問において使われている言葉の定義にできるだけ沿う形で自身の著書を記していた思想家である。実際に、氏は「自分の使う言葉が英語でいうとどうなるのかが常に気になる」という類の発言をしている。これが、特に後年の西部邁の本が横文字に溢れて読みづらくなってしまった原因の一つなのだろうと私は考えている。その点、吉本隆明の「大衆の原像論」における「大衆」という言葉遣いの方が「普通の言葉遣い」なのだとすら言えてしまうのかもしれない。
よって、西部邁の思想を継承するのであれば、マスという言葉を「大衆」ではなく「マス」「大量人」等と表現すべきなのかもしれないが、学問的な厳密性を求めすぎて「難しい言葉を使って人を煙に巻こうとしてるんでしょ?」を言われないように注意もしなくてはならない。学問や思想における言葉の選択は難しい。
私は「英語を教えることを生業にしてしまった学者のなりそこない」として、このあたりの言葉遣いの事情、西欧語を日本語へ訳す際の困難さ説明させていただく役割を演じることがを残りの人生において求められているミッションの一つなのかもしれない。
合掌。生かしていただいてありがとうございます。