権力はゼロに出来るか?

 

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前回書かせていただいた通り、3/9(火)の夜に「RC思想解説セミナー」を実施させていただくことになりました。GMAT/GREのRC(Reading Comprehension)において出題されるトピックの中で受講生の方々が理解に苦労されることが多い思想関連領域に絞って解説させていただきます。中でも特に「マルクス主義」と「フェミニズム」の関係について丁寧にお話しさせていただく予定なので私自身も勉強し直しています。

 

ここから先は橋爪大三郎先生の「冒険としての社会科学」を参考にしながら論を進めてます。私は若い頃に読んだ本の大部分を処分してしまっているので、手元に残っている数少ない本とインターネット上の情報を元にして論をまとめていることをご容赦ください。

 

冒険としての社会科学 (洋泉社MC新書)

 

『マルクス主義はもともと、反権力の思想である。理想の共産主義社会には、権力(人間が人間を支配すること)なんてない。ただし、そこにいたる方法論(必要悪)として、権力の使用(革命と独裁)を認めるという思想である。』(橋爪大三郎「冒険としての社会科学」p.105より引用)

 

反権力の思想を掲げる共産主義勢力がなぜ暴力的なのかを考えるポイントは、この「権力を無くための手段として暴力を肯定する」というパラドックスだと思います。関連する用語に「民主集中制」が挙げられるでしょう。民主集中制(正式には「民主主義的中央集権主義」)とは、ロシア社会民主労働党が採用した党組織の原則論であり、現在の日本共産党の内部規律となっています。 民主集中制における「集中」とは要するに「権限の集中」を意味します。本来「民主」と「集中」は「水と油のようなもの(橋爪大三郎)」であり、実態は「集中」制そのものです。「民主」は「ほんの付け足しである(橋爪)」と言えるのです。このようなレトリックにより、本来「反権力」の思想である共産主義が権力的な体制になるのであり、「民主主義」を標榜している割には「権力の集中」が見られるのだと私は理解しています。

 

ここで問題になるのは「そもそも権力はゼロにできるのか」という根源的な問いです。この問いに対して私は学生時代に「No」という明確な答えが出たので、このあたりのことを卒論「ことばと権力」に書きました。そして、その結論を出す上で大きな力を貸してくださったのが橋爪大三郎先生でした。橋爪先生はご著書の中で繰り返し書かれている通り、全共闘運動に関わったことの振り返りとして以下の様に書かれています。

 

『全共闘というのはマルクス主義の影響下での運動だったから、それに即して言いますと、「権力は悪い」、それから「体制というのは悪い」といういくつかの重要な前提があったと思うんです。そこをぼくは非常に疑うようになったんですね。で、権力っていうのは確かに悪い権力はいっぱいあるけども、権力っていうのはゼロにできるか。』(「自己から世界へ」春秋社 p.103より)

 

『で、構造主義を勉強したせいもあるんですけども、規則やルールにはね、外材的な抑圧的なものもあるけれども、その本来の姿っていうのは自発的・内在的なものでね、生きていくくってことと密接・不可分なもものである、と。』(「自己から世界へ」春秋社 p.103より)

 

徹底討論「自己」から「世界」へ

 

本来権力はゼロには出来ないもののに「権力をゼロにできる」という過てる前提にたって論を組み立ててきたのが共産主義の一番の問題点だと私は考えます。「全力はゼロに出来る」という前提に加えて「自分自身に権力性はない」と思い込むことによって、共産主義者は自分の権力性や暴力性を深層心理学的に言うと「抑圧」しているのでしょう。そして、深層心理学の教えの通り、抑圧された感情はしばしば暴発的に望ましくない形で発言します。実際に、私が今までの人生で触れてきた共産主義シンパの方々には威圧的、断定的、暴力的な人が多かったのです。「権力反対!」と叫びながら身近の人たちには良からぬ権力を発動する元学生運動の闘士などは、私には喜劇的な存在とすら思えます。

 

そういえば、私の卒論「ことばと権力」は今どこにあるんだろう?(苦笑)幸いなことに合計約5名(担当教官を含む)の読者を得た私の卒論は、誰かに貸しっぱなしでなければ家のどこかに眠っているはずです。

 

合掌。生かしていただいてありがとうございます。