フィリピンにて。


最初のフィリピン滞在では、結局一度もリゾートエリアから出なかった。
わずか四日間の滞在だったこともあるが、勇気がなかったのだと思う。


二回目のフィリピンで、タクシーと乗り合いバスを使って初めて街へ出る。
クリスマスシーズンの街は、買い物客とカトリック教会周辺で祈りを捧げる
人々でごったがえしている。スペイン発の宗教、アメリカ発の消費文化、
日本発の車や電化製品が溶け合う路上で小さな子供たちからお金を
求められ、心に棘が刺さる。


私は、必要以上に過去を引きずる男だ。日本の男がフィリピンに行く
ことに罪悪感、抵抗感を覚えていた。戦争のこと、日本男とフィリピン
女の間の様々な悲劇、臓器売買問題等々、フィリピンという名前を聞く
だけで複雑な緒問題が頭をよぎる。どの国が悪いとか、誰が悪いとか、
簡単に言える事柄ではもちろんない。ただ、重たい無数の棘が、
熱帯の湿った空気と絡み合い、胸の中で苦々しい化学反応がおこる。


結婚することになった女性(妻)の実家に結婚の挨拶に行った際、
妻の父の父、つまり妻の祖父がフィリピンで戦死していたことを知る。
仏壇でお線香と祈りを捧げる。そして、翌日私はフィリピンの戦場で
兵隊として死線をさまよう夢を見た。日本人として生きていく以上、
戦争の傷をしっかりと引き受けていかなくてはいけない。あの戦争
(あの戦争をどう呼ぶかかさえ難しい問題だが)のことを安易に美化
したり、気安く批判したりするのではなく、しっかりと目を見開いて
バランスよく歴史を背負っていく義務が私たちにはある。どのような
世界史の流れであのような戦争が起きたのかという「歴史」の視点や、
空気に流されやすい日本の組織論、政治的風土の研究等が重要である
ことは当然として、一番大切なことは、いろいろな立場の人の激烈な
体験、想い、悲しみを可能な限り引き受けていくこと。


かつて愛した女性の部屋で、フィリピンでの海外青年協力隊隊員としての
活躍ぶりを示す写真を見て、思わず嫉妬心を感じたこともある。俺は何も
していないじゃないか。真理を目指す学者にはなりそこね、体を張る
ジャーナリストにもならず、ただ毎日をなんとなく暮らす日々。でも、
せめて、マスメディアが垂れ流す情報に惑わされずに、自分の目を
しっかりと見開いて、可能な限り「真実」を見抜こう。それが最低限の
私に課されたミッションなのだと思う。リゾート地でも棘を忘れないことが。
知識がないのなら、せめて情報の「嘘」を見抜かなければ。


リゾートホテルに戻って、夜のダンスイベントに参加する。ばりばり
踊っているのは、社交ダンサーの私達夫婦と、アメリカ人らしい
年配カップルだけ。ダンサー同士、英語で社交の挨拶を交わす。
でも、その地で、かつて日米間で激戦があったのだ。


合掌。