「大衆」とは何か?

 

学者 この喜劇的なるもの

学者 この喜劇的なるもの

  • 作者:西部 邁
  • メディア: ペーパーバック
 

 西部邁の思想を考える上でのキーワードは「大衆(英語では"mass")」であろう。「大衆」という言葉には知識人と対比されるものとしての「無知な大衆」を意味するという誤解、学者が庶民を見下して使う言葉であるという曲解があると西部邁は説明する。

西部邁の大衆論はオルテガの思想をベースにしたものである。オルテガは大衆を「皆と同じだ」と感じることに快楽を覚える存在であると分析する。

大衆は「近代」や「民主主義」という旗印を掲げて自分たちとは異なる意見を封殺する。自らの拠り所であるはずのコミュニティーを失った大衆は根無し草のように浮遊を続け、世界の複雑さに耐えられず同質化の波に飲み込まれていく。つまり、オルテガと西部邁にとっての「大衆」は資本家と労働者の違いのような社会階級ではなく、精神のあり方の違いによる「精神階級」なのである。

『第一に、自己を疑うことをしない凡庸な人間を大衆人とよぶなら、大衆人の典型は、自己のかかわる分野以外には興味を示さない、さらには反発を隠さないものとしての専門人である。』(「学者 この喜劇的なるもの」西部邁 草思社 p.11より)

つまり、西部邁の定義によれば、自分の専門分野という「タコつぼ」に閉じこもって自己満悦に陥っている学者たちこそが「大衆」の典型例だということになるのである。

大衆を語った思想家としては吉本隆明のことを忘れてはならない。西部邁と吉本隆明の対談(「論士歴問」プレジデント社)は、二人の「大衆」という言葉の定義が真逆な状態のまま平行線で進んだ。

論士歴問

論士歴問

  • 作者:西部 邁
  • 発売日: 1984/10/10
  • メディア: 単行本
 

 この対談の中で、吉本隆明は「大衆」について以下のように語っている。

『ただ、ぼくの場合は、そういう分類をさせてもらうと、やはりマルクスのトーンのような気がするのですよ。つまり無政体というのが理想なのじゃないかという気が究極はするのです。究極的に無政体になっていくといったときに、何が無政体を象徴するかあるいは代表するかといったら、それはもう大衆というもの以外にない。』(論士歴問 p.19より引用)

吉本は「権力」というものを基本的には肯定しなかった思想家であり、権力が集中する政治組織が存在しない「無政体」が理想の社会の在り方だと説く。そして、その無政体を象徴するもの、つまりは無政体の中で「正しさ」のよりどころとなる存在は「大衆」なのであると構えるのである。

つまり、思想界においては「大衆」を批判の対象とする潮流と、逆に正しさの拠り所として解釈する流れとが存在するのである。雑な分類であることを承知で語ってしまえば、この考え方の違いは「保守」と「革新」という思想の流れに沿った違いであると言えるだろう。

 

合掌。生かしていただいてありがとうございます。

 

 

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