書評?読書日記?便所の落書き?

 

 

「書評」という言葉の意味を辞書で調べたところ「書物について、その内容を紹介・批評した文章。」という定義に遭遇しました。また、「書評」を英訳すると「a book review」となるようです。私はGRE(Graduate Record Examinations)というテストの指導においてはプロであると自分のことを定義しているのでGREの模擬試験について「レビュー」を書かせていただいたことがありますが、思想や歴史などの分野については私はどのように考えても素人なので「批評」をしたり「レビュー」を書く資格はなさそうです。

では「読書日記」を書けばよいのかもしれませんが、それでも「かっこつけすぎ」かもしれないという妙な「照れ」が私にはあります。インターネット上に公開する文章などしょせん「便所の落書き」みたいなものだからです。

でも、私は「便所の落書き」でも読んだ人がほっこりしたり元気になったりする「落書き」を実践したいのです。また、このような文章を書く機会でも作らないと私は読書をさぼってしまいます。

ということで、このような文章をどのように呼ぶかは今後決めますが、とりあえず日々の読書について書かせていただきます。

今回は「日本国史・上」の「新版まえがき」を読んだ感想です。

著者の田中氏が述べている通り、戦後日本の歴史観は偏っていると思います。日本の社会や文化を過度に「階級的」なものとして考え、貧富の差を強調しすぎているのです。背景としては、マルクス主義的な「進化論」に基づく「左翼イデオロギー」が日本のアカデミズムに横行していたことが挙げられるでしょう。

また、日本には縄文文明に端を発する独自の文化と伝統が存在するのですが、大陸(中国と朝鮮)から文化が入ったのであり、それ以前には日本にはまともな文化がなかったと考える「自虐史観」が横行しています。もちろん、中国と朝鮮から多くのことをまなんだのは事実ですが、だからといって日本文化が「中国・朝鮮のコピーだ」と考えるのは極端な解釈です。

日本語には「三層」(三つの層)が存在すると考えるのが適切です。第一層が「大和言葉」です。縄文の言葉と言ってもよいでしょう。そして第二層が大陸(中国・朝鮮)から入ってきた言葉であり、その上に第三層として欧米の言葉が混ざりこんで現代の日本語が成立しているのです。これら三つの層は全て「日本語」であり日本語の大切な要素なのですが、古層としての「大和言葉」を大切にする姿勢や、縄文時代に日本の原点を見出そうとする構えが今の私たちには必要なのではないでしょうか。

著者による「邪馬台国の不在」と「高天原(たかまがはら)=日高見国(ひたかみのくに)」という仮説の是非は現時点の私には判断がつきませんが、真剣に検討する価値があることは明らかでしょう。

歴史学においては過度な「文献主義」が存在します。つまり、「文献がないと歴史が分からない」という考え方、裏っ返して言えば「過度な分権への信頼」が存在します。たとえば、「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在は「魏志倭人伝」という文献が根拠になっているのですが、そもそも「魏志倭人伝」の内容を信頼してよいのか疑わしいのです。また、文字が無かったとされる縄文時代が「文字の不在」というだけの理由で「文明のレベルが低い」あるいは「よく分からない時代」と判断されがです。そこを、この本(日本国史)の著者である田中英道氏は形象学(フォルモロジー)という考え方により縄文時代を「形」で読み取ろうとしているのです。

フェミニズムを語る上でも「歴史」をどのように考えるのかがテーマになっています。つまり、歴史研究を「文献主義」によって限定してしまうと、権力の地位についていなかった女性や文章を書き残さなかった女性の実態が「歴史」から排除されてしまうわけです。そこで、女性の歴史を考える上で「文献」以外の手段に頼ろうと考えるのは当然のことだと私は考えています。