宗教について。


日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)




私が学生時代に一番影響を受けた先生は、法政大学名誉教授の高尾利数先生(キリスト教学が専門)です。悩み多き私の質問に、我慢強く付き合ってくださいました。高尾先生、必ずまたどこかで先生の講座に顔を出します。ごぶさたしてまい申し訳ありません! 先生に出逢えただけでも、法政大学に行った意味がありました。先生の退官講義、素晴らしかったです。


その後、島田裕巳氏の本を読み漁った時期もありました。文献研究だけにおさまらず、宗教という重たいテーマに体当たりしていく島田氏の姿勢に共感しました。ただ、その「体当たり」の姿勢でオウム真理教と向かい合い、オウム真理教に「好意的」な記事を書き(少なくともそう見なされた)その結果、しばらく業界から「ほされて」しまった。でも、その後復活されたので、嬉しく思っています。


島田裕巳氏のブログ:http://blog.livedoor.jp/shhiro/


上記の本(日本の10大新宗教)の22頁にも書かれていますが、「宗教」という言葉は近代に入って生まれました。幕末期に「Religion」という概念の訳語が必要となり生まれた単語のようです。このあたりの事情は「社会」という概念の歴史と似ています。明治以前には「社会」という言葉はありませんでした。「Society」という英単語に与えられた日本語が「社会」です。なので、「社会って何?」と聞かれてもピントこないのはある意味致し方ないのです。だって、土着の概念ではないのだから。



阿部謹也先生が晩年格闘された「世間論」が示す通り、日本人は「社会」ではなく「世間」に生きているのです。



「世間」論序説―西洋中世の愛と人格 (朝日選書)
阿部 謹也
朝日新聞社 (1999/08)
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中沢新一氏も「言葉にはふるさとが必要だ」とコメントしています。でも、私たちが日常接している言葉の以外と多くのものが、近代以降西洋から入ってきたものです。このあたりの事情に興味がおありの方は、柳父章先生の以下の名著を是非ご一読ください。英語の勉強にもつながります。


翻訳語成立事情
翻訳語成立事情
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柳父 章
岩波書店 (1982/01)
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「愛」だって、根本的には西洋の概念です。もちろん古来から「愛」という言葉自体は存在しましたが、それは現代における「キリスト教的な愛」の概念や「ロマンティック・ラブ」という意味ではなかった。だから、日本男子が「私はあなたを愛しています」とは簡単には言えないのは当然なのです。「愛」なんて借り物の概念だ! 「ふるさと」がない「愛」なんて言葉には意味がない! (以下自粛)



日本人は、よく「無宗教」だと言われます。あるいは、宗教的に「無節操」だとも批判されたりする。西洋人との付き合いの中で、「日本人には"principle"(行動原理)がない様に見える」というコメントをもらったことも複数回あります。


でもね、「宗教」も外来語なんですよ。西洋的な尺度で見たら、確かに日本人は「無宗教」に見えるかもしれない。でも、それはあくまで「外野」の視点にすぎない。


p.22 (日本の10大新宗教)

需要なことは、宗教という概念がない状態では、無宗教という考え方もなく、自分は無宗教だという自覚も生まれなかった点である。


河合隼雄先生が、確かどこかの対談で、日本人は、日々の生活の中の平凡な行為(掃除、おじき)の中に「宗教性」がたっぷりこめられているので、わざわざ週1回教会に行く必要がない、という意味の発言をされています。本質をついていると思います。


「宗教」という言葉では収まらない伝統が日本にはあるので、最近はちょっとぼかした「宗教性」とか「宗教的」という表現が使われるのだと、私は解釈しています。


神道系の宗教家である私の親友曰く、神道は「宗教」と考えない方が良いらしい。「宗教」ではなく、「習慣」であり「伝統」であると。私はこの見解に100%賛同はできないのですが、少なくとも、「西洋発
の<宗教>という概念では、神道の本質をつくことはできない」という考え方には賛同できます。


言葉には「ふるさと」が必要です。そして、もちろん、人間にも「宗教」という「ふるさと」が必要です。



合掌。