構造主義談義の続き、「その4」です。


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寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹
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第2章で、いよいよソシュールが登場します。


p.60
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ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは『ものの名前』ではない」ということになるでしょう。
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英語学習を語る際に、「英語はコミュニケーションの手段である」「英語はただの道具に過ぎない」などのコメントを多くみかけます。もちろん、英語学習の重要性を強調しすぎることへの反動として、「ただの手段ではないか」と、英語学習を「相対化」しようとする意図には共感できます。ですが、やはり英語は「ただの手段」ではないです。それ以上のものです。言語以前に無色透明な真実があるわけではない。言語自体が意味を作る。日本語と英語では、それぞれ異なる世界観がある。日本語や英語などのラング(言語)を超えた、普遍的な「意味」など存在しない。



p.61
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まず「もの」があり、ただ名前がついていないだけなので、人間がこちらのつごうで、あとからいろいろと名前をつけること、それがことばの働きである、というのが『創世記』に語られている言語観です。これをソシュールは「名称言語観」と名づけました。
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実は、この『創世記』に関する考えかたについては、私はやや違和感を覚えます。内田先生は、まず「もの」があった、という考え方が創世記における言語観である、と指摘されていますが、私はこの点においては異論があります。創世記の言語観は、「神が自分の意思で世界を区切っていった」、という言語観だ(と私は思う)からです。




手元にある創世記(英語版)にはこう書かれています。(私の日本語訳をつけます)


(3)
Then God said, そして神は言った。

"Let there be light," 光よ、存在せよ。

and there was light. そして光が存在を始めた。


そう、神以前に「もの」があったのではなく、神が「存在せよ」と、世の中を分節し始めたことによって「もの」が生まれた。ことば(この場合では「光」)を「存在せよ」と言ったことによって、「光」という「もの」が存在をはじめた。つまり、「光」ということば以前に「光」という実体がそもそもあったのではないわけです。それでは、内田先生が批判している「名称言語観」になってしまう!


まあ、このあたりの聖書の解釈は、聖書を「真実を語っている聖典」ととらえるか、あるいは一つの「世界を解釈する壮大な物語」と読むか、によっても異なってきます。私は後者の立場ですが、「ただの作り話」とは書いていません(よく誤解されますが)ので、ご了承ください。人類の歴史、言語の創生を語る、壮大で美しい「物語」である、と肯定的にとらえています。


さて、聖書の解釈はともあれ、「名づけられる前からすでにものはあった」という考えかた(名称言語観)を、内田先生は批判されていますし、これこそが構造主義の考え方のエッセンスです。ことばは、単なる道具ではないし、既に存在するものにつけられた、ただの「名前」ではありません。


内田先生は、星座の例を挙げられています。(p.66) 星座のことを知らない人には、大空の星が、ただのばらばらの「星」にしか見えないが、星座に詳しい人は、いくつかの星の集まりのことをたとえば「北斗七星」と認識する。星座の例は分かりやすいですね。人間の言語活動が始まる前には「北斗七星」なんて存在していませんでした。そこに、人間が勝手に、いくつかの星を関連づけて、「北斗七星」と名づけたわけです。大切なポイントは、「北斗七星」という言語化、分類化が行われる以前には「北斗七星」は存在しなかった、ということです。いくつかの星を、人間の主観で「北斗七星」と名づけたことによって、はじめて「北斗七星」という「もの」が存在をはじめたわけです。言語以前に世界が分節されているのではなく、人間が言語活動によって世界を分節しているのです。


p.67
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言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるものではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。
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一介の英語講師にすぎない私が、構造主義の大切さを訴えるのには訳があります。「名称言語観」を前提にした英語学習は、本質的に間違っているのみならず、非効率的だからです。「名称言語観」にたって物を考えると、日本語のことばと英語のことばの間に「1対1の対応」が成り立つはずだ、という楽観的な「翻訳可能性」をナイーブにも信じてしまう可能性が高くなる。英語の"I love you."と、日本語の「私はあなたを愛してます。」との間には、絶望的なほどに意味の違いがあるのに、英語を日本語に訳したことによって、英語の本質を理解した気になっては困るんです。 


"head"を「頭」と訳すのは、便宜上致し方のない点があります。が、"head"と「頭」では、区切られている部分が異なる! 英語の"head"は、首から上の部分、つまり鼻とか口を含む概念なのですが、"head"を「頭」と訳してしまうことによって、鼻や口が"head"に含まれていない、という誤解が生じてしまう。


このあたりの、英語と日本語の意味のずれについては、酒井邦秀先生による名著「どうして英語が使えない」に詳しく書かれていますので、一読をお奨めします。


どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)
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2 行き過ぎた批判
5 「water」は「水」ではない!
2 くどすぎる!
4 学校英語批判+多読紹介
5 英語学習の王道


アマゾン上での評価は分かれていますね。まあ、言語認識上の問題点、名称言語観の問題点にピンときていないと、酒井先生の本は単なる「知的漫談」「だらだらと理屈っぽいだけの、行き過ぎた批判」となってしまうのでしょう。酒井先生、応援しています! これからも頑張ってください! え、お前も頑張れって? ははは・・・ まあ、とりあえずブログを細々と書き続けて生きます。