勉強の仕方―頭がよくなる秘密 (ノン・ポシェット)



海外の某所にて、将棋の羽生名人をみかけたことがあります。私はよほど特殊な事情がない限り、街中で有名人には声をかけない主義なので、すっとその場から消えました。が、私は羽生さんにぶつけてみたい質問があり、是非一度お話をしてみたいなあと妄想しています。なので、羽生さんに話しかけるのを我慢するのは大変でした。(苦笑)


以下の動画の02:54ぐらいで、羽生さんがほほ笑んでいます。この時羽生さんが何を考えていたのかを知りたい。内藤・有吉戦を、米長・加藤が解説をし、羽生さんが見学しているという状況です。米長邦雄永世棋聖と加藤一二三九段の将棋観の違い、そして人間観の違いを、羽生さんが本音ではどのように受け止めているのかを是非知りたい。


https://www.youtube.com/watch?v=znuESo1vQJI


真理追求派の加藤一二三九段が盤上の最善手を予想しているのに対し、米長邦雄永世棋聖は「内藤さんならこう指すだろう」という「読み」を披露しています。米長さんは、以下の様にコメントをしている様子です。(以下の文字は、私による「注釈」と「音声の書き起こし」です。)


02:39〜
(加藤さんが内藤さんの差し手予想をはずしたことを受けて)加藤さんね、長い間付き合ってね、内藤さんがそういう人間じゃないってことを分かってなきゃおかしいんだなあ。


04:54〜
(内藤さんとは)何十年の付き合いですからね。善悪じゃないんですよね。


06:32〜
加藤さん、あなたはね、(内藤さんと)何十年の付き合いだか分からないんだけどね、あなたは将棋の最善手を求めいている。私はね、この人間ならどういうことを指すかということだけを言っている・・・


敬虔なるカトリック信者でもある加藤さんが「盤面における最前手」「真理」を追究しつづけているのに対して、米長さんは「この人ならこう指すであろう」「相手が一番嫌なのはこの手であろう」という「かけひき」あるいは「人間」を追求した。私は、この二人の「人間観」の違いに身震いするほどの知的興奮を覚えると共に、異なる人間観を持つ人間同士は「なかなか分かり合えない」という寂しい現実にも気づかされる。


私はテスト屋(テスト講師)としては、圧倒的に後者(かけひき派)です。たとえば、GMAT Verbalの授業では、「本質的にどれが正解か」という発想よりも、「問題作成者がどれを正解として選ばせようとしているのか、どれをひっかけとして選ばせようとしているのか」という発想を軸に解説を組み立てています。なので、正統派(真理追求派、絶対主義派)の方には、私の授業は向かない可能性があります。辞書になんと書かれていようとも、文法書になんと書かれていようとも、問題作成者が正解といったら正解なのです。


私の頭の中では、将棋もGMATもカウンセリングも、根底で全てつながっています。「哲学」が重要だという点において。


合掌。生かしていただいてありがとうございます。