「保守思想大全」適菜収著
「読書雑記」を書いてみようと思うに至りました。私は学者でも批評家でもジャーナリストでも無いので、私が書く文章は「雑記」であり、究極的に言うと「便所の落書き」みたいなものです。しかし、どうせ「落書き」をするならば「へー、こんな面白い考え方があるんだ!」等の刺激を受ける人が一人でも出現するような「意味ある落書き」を目指すことにします。
さて、適菜収さんの本についてです。私には適菜さんの言葉は辛辣にすぎて読むことが辛く、今まではしっかりと向き合うことを避けてきました。ですが、保守思想を正面から論じた本が出版されたことを知り、修業させていただく腹を決めた次第です。
p.003「はじめに」より引用
『私は「言い古されたこと」を繰り返すことが大事だと思っています。』
「はじめに」の中で「言い古されたことを繰り返すの大切さ」が語られていることが保守思想を体現していると思います。保守の姿勢は当然ながら「古き良きもの」を志向するものであり、「言い古されたこと」の中に真理が宿されていると構えるのが当然の態度だからです。
そして、「保守」を理解する上では「近代」を正しく理解することが必要だと適菜さんは主張されており、私もこの点においては全面的に賛成です。学問的な系譜や言葉の定義を大切にするのであれば、「保守」は「近代」を批判する意図で誕生した思想だという経緯を認めざるを得ないのです。たとえば、自由主義者のバークがあえて「保守主義」を唱えたのは、フランス革命という狂気に直面したからだとされています。「保守」という言葉の由来となった「conservatism」という言葉はフランス革命という理性の暴走を批判する文脈で使われるようになったものです。
「近代理念」の暴走を抑制するために登場したのが「保守思想」なのであり、単なる「現状肯定」や変化を否定する「反動」、さらには単なる「外国人嫌い」や偏狭な「愛国」等の「保守もどき」を真正の「保守思想」と混同しないように注意する必要があります。
しかし、「保守」という言葉を過度に正確に使おうとすると、「保守」だとされているグループや人たちの間で「お前たちはエセ保守だ!」「いや、お前たちこそ偽物だ!」などと「保守勢力の中における仲間割れ」が生じるリスクがあります。実際に、私自身も保守界隈で「保守」だと認められたことは今のところ一度もありません。(もちろん、私のことを「先生」と呼ぶ方々は例外です。「先生」という敬称を使う時点でどうしても「忖度」が働きますからね。)
でも、だからと言って、言葉の歴史や思想的背景を軽視しすぎては「保守」の意味が定まらなくなります。なので、たとえ「便所の落書き」であったとしても、読者を一人でも獲得しようという意思がある以上は「学者的精神」と「常民的感覚」との間で綱渡りを続けるしかありません。このような作業は複数の「分野」や「次元」における言葉遣いを使い分ける「通訳」的アクロバットが必要になるので、メディアに出て発言する勇気を私は今のところ持ち合わせていません。よって、とりあえずは「便所の落書き」からスタートします。